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大阪高等裁判所 昭和63年(行コ)59号 判決

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者双方の申立

一  控訴の趣旨

主文同旨の判決を求める。

二  控訴の趣旨に対する答弁

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

との判決を求める。

第二  当事者双方の主張

次のとおり、当審における当事者双方の主張を付加する他、原判決事実摘示のとおりであるから(但し、原判決二枚目裏三行目の「製品」とあるのを「花王石鹸株式会社和歌山工場の製品」と、同二六枚目表二行目の「尿検査」とあるのを「検査」と各改める。)、これを引用する。

一  当審における被控訴人の主張

1  当審における控訴人の主張4のうち、本件において、章次の死因とされた「急性心不全」が、全身に必要なだけの血液を送り出せなくなったという心臓の状態を指し示すものであって、終局的に心臓が停止したという結果を意味する医学的概念であることを認め、その余は争う。

2  労災補償制度は、労働者が、人たるに値する生活を営むための必要を充たすべき労働条件の最低基準(労基法一条)を定立することを目的とし、負傷、死亡、または疾病が「業務上」であることのみを要件に、療養補償、遺族補償、障害補償などを行う法定救済制度である。

3  このような制度の目的に照らせば、本来、対等な市民相互間に発生した損害の公平な分担を制度の目的とする不法行為あるいは債務不履行に基づく損害賠償制度において必要とされる不法行為あるいは債務不履行と損害との間の「相当因果関係」は、労災補償制度における「業務上」認定のための法的要件としては必要ではなく、「業務上」認定のためには、「相当因果関係」よりも広い、業務と負傷、死亡または疾病との間に、損失を使用者あるいは政府に負担させるべき「合理的関連性」があることをもって足りるというべきである。

4  これを、本件のような非災害性の心臓疾患の「業務上」の認定基準についていえば、(1)当該疾病に悪影響を与える業務に相当期間従事していた労働者であること、(2)脳卒中、急性心臓疾患など循環器疾患の発症したこと、(3)当該業務への従事と当該疾病(基礎疾病を含む。)の発症、増悪、軽快、再発などの推移の関連性が推定されることの三要件の充足をもって充分であるとしなければならない。(1)について、業務に関連する突発的、またはその発生状態を時間的、場所的に明確にすることのできる出来事、もしくは特定の労働時間内に、特に過激な業務に従事したことによる、精神的、または肉体的負担が、発症の直前に存在する必要はないし、(3)については、右関連性が、医学的に証明される必要はなく、また、それが明確である必要もなく、推定で足り、さらに循環器疾患の発症について、災害、出来事との時間的間隔に関する医学的証明は、必要とされない。

5  本件において、章次は、虚血性心疾患などの発症、増悪に、蓄積疲労を含めて悪い影響を与える自動車運転業務に長期間従事してきた者であり、右業務に従事したことにより急性心臓死したものと認められるところ、自動車運転業務に従事することと急性心臓死の発症への推移との間には関連性が推定され、医学上の知見ともなんら矛盾しないから、右非災害性の心臓疾患の認定基準を全て充足していることが、明らかである。

6  したがって、本件については立証責任が転換され、控訴人は、章次の死亡が「業務上」のものではないことを立証する責任があるといわなければならない。そもそも、前記労災補償制度の目的に照らし、当事者の公平、紛争の迅速な解決、労働者がその権利をなるべく主張しやすくするのが望ましいとの政策的見地からも、法解釈上、この点につき、労働者に立証責任はなく、使用者(政府)に立証責任があるというべきである。

二  当審における控訴人の主張

1  被控訴人の当審における主張は争う。

2  労災補償制度は、使用者が、労働契約を通じて、労働者をその支配下におき、従属労働関係の下で労務の提供をさせるものであるから、その過程において、当該事業に内在する各種の危険が現実化し、労働者が、そのために負傷し、または、疾病にかかった場合には、使用者に、右傷病の発生について過失がなくとも、その危険についての責任を負担させ、労働者の損失を補償させる制度である。

3  労働者の死亡につき、その遺族が労災保険法上の遺族補償給付等の支給を受けるのに必要な業務起因性が認められるためには、業務と疾病、死亡との間に相当因果関係が認められることが必要である。

右労災補償制度上の相当因果関係が存在する場合とは、不法行為法における行為と損害の間あるいは債権法における債務不履行と損害の間に存在することを要求される相当因果関係とは異なり、前記労災補償制度の趣旨、目的に照らし、当該業務に内在する有害因子、危険に起因する疾病等であることが経験則上明らかな場合に限定されるべきものである。

したがって、労災補償制度のもとにおける業務と疾病等の関係は、適正かつ明確な基準によって規律されなければならず、疾病等の発症が単に業務を機会とするに過ぎない場合は、これを労災補償の対象から除外すべきものである。

被控訴人の、業務起因性が認められるためには、業務と疾病、死亡との間に合理的関連性が認められることをもって足り、相当因果関係の存在は必要ではないとの主張は、現行法の予定する労災補償制度における補償及び保険給付の範囲を画する基準としては、広きに過ぎ、相当ではない。

4  本件における章次の死因とされている「急性心不全」は、全身に必要なだけの血液を送り出すことができない心臓の状態を指すものであって、終局的に心臓が停止したという結果を意味する医学的概念に過ぎない。右心臓機能の停止を惹起するに足りる原因疾病は、本件において不明であり、したがって、業務と「急性心不全」による章次の死亡との間には、相当因果関係の前提となる条件関係すら認めることができない。

仮に、原因疾病が、脳血管疾患あるいは心疾患等の循環器系の疾患であると推認されるとしても、これらの疾患は、個人の素因ないし基礎となる動脈硬化等による血管病変または動脈瘤等の基礎的病態が、年齢を重ねることや一般生活等の私的要因によって、自然の経過を経て増悪し、発症するに至るのが大部分であり、その発症については著しい個人差が認められ、これらの疾患の原因となりうる特定の業務は、医学上の経験則によっても認められていないから、本件の章次の死亡と当該業務との間に相当因果関係があると認められるためには、当該業務が、急激な血圧変動あるいは血管収縮を引き起し、本来、私病である前記動脈硬化等による血管病変または動脈瘤等の基礎的病態が、自然の経過を超えて急激に著しく増悪し、脳血管疾患あるいは心疾患等の循環器系の疾患を発症させたことが、医学的見地から肯定しうるものでなければならない。すなわち、このような場合には、その業務に内在する有害因子、危険が現実化したものといえ、当該業務は、急性心不全の原因疾患たる脳血管疾患あるいは心疾患発症の相対的に有力な原因であるということができ、業務との間に相当因果関係が認められることになるからである。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一  被控訴人の夫章次は、昭和四四年六月、訴外会社に運転手として雇用され、大型貨物自動車運転の業務に従事していたが、花王石鹸株式会社和歌山工場の製品を積載したセミトレーラー車を運転して、和歌山市から名古屋市に向かって進行し、右貨物を運送する業務に従事中、昭和五六年三月二日午前四時三〇分ころ、奈良県天理市檪本町三一三一番地「だるまや食堂」裏側の空地において、「急性心不全」により死亡したこと(請求原因1の事実)、被控訴人は、章次の妻として、控訴人に対し、同年四月三〇日付けで、労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の給付請求をしたが、控訴人は、章次の死亡は業務上の事由によるものとは認められないことを理由に、同年九月一八日付けで、右遺族補償給付及び葬祭料を支給しないことに決定した旨の本件処分をしたこと(請求原因2の(一)の事実)、被控訴人は、右処分を不服として、和歌山労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求をしたが、同審査官は、昭和五七年二月四日付けでこれを棄却したこと(請求原因2の(二)の事実)、被控訴人は、右棄却決定を不服として、さらに、労働保険審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は、昭和五九年一一月七日付けで右請求を棄却する旨の裁決をし、右裁決書謄本は、同年一二月二一日、被控訴人に送達されたこと(請求原因2の(三)の事実)は、いずれも当事者間に争いがない。

二  章次の勤務状況

〈証拠〉を総合すると、次のとおり認められる。

1  章次は、昭和四四年六月ころ、訴外会社に運転手として雇われ、当初は普通貨物自動車の運転に従事していたが、昭和四九年ころから大型貨物自動車に、昭和五二年ころからはセミトレーラー車(日野HE三五五)に各乗車するようになった。右セミトレーラー車は、前部トラクター部分と後部トレーラー部分とが脱着自在に連結された大型貨物自動車で、全長一五メートル、最大積載量一四・五トンである。

2  訴外会社は、花王石鹸株式会社和歌山工場の製品等の運送及び倉庫の管理につき同社と専属契約を締結しており、章次が死亡した昭和五六年三月当時、従業員約一一〇余名、セミトレーラー車約一二台、一〇トン貨物自動車約五台、四トン貨物自動車約一五台、タンクローリー車(一〇トン車)約二五台を擁する中堅の運送会社である(乙第一九号証参照)。訴外会社における章次の勤務状況は、主として、京阪神方面、名古屋、岐阜、滋賀、奈良等への貨物運送であり、章次の死亡前三か月間の同人の勤務内容は、原判決添付別表一ないし三記載のとおりであった。その貨物運送先の大阪、京都、奈良への、和歌山からの片道の走行距離は、およそ一〇〇キロメートル、名古屋へは、およそ二六五キロメートル、岐阜、滋賀へは、およそ一九〇キロメートル、姫路へは、およそ一七〇キロメートル、南部と記載されているのは、大阪府八尾市南部で、およそ八〇キロメートル、泉州と記載されているのは、泉大津市で、泉州花王営業所に和歌山工場製品を運搬する乗務である。その乗務の時間、内容等は、不規則で必ずしも一定しておらず、夜遅く又は早朝、車を運転して和歌山を出発し、往路又は帰路の深夜、その運転をする場合も一か月に数回あるが(この場合、勤務が二日間に亘るときは、通常二人乗務で、かつ、勤務時間中に仮眠等による休憩時間がある)その他に、本件の場合のように、イーグルと称せられている乗務が一か月に一回程度あり、その内容は、花王石鹸和歌山工場の製品の積み込まれたセミトレーラー車を、一人で運転して午後三時ころ和歌山を出発し、名古屋市内にある向島運送株式会社名古屋営業所まで搬送し、同所において、午後一〇時ころ、自己のトレーラーの積荷部分と、東京方面から来るかねて指示を受けている車両の積荷部分とを相互に交換したうえ、翌日の午前六時ころまで、仮眠、休息したのち、同所を出発して午後二時ころ、和歌山に帰還するという二日間にわたり、拘束時間が二二ないし二三時間に及ぶ乗務もある。

3  章次は、昭和五二年にトレーラー車の運転に従事するようになって以来、前記2で認定の乗務とほぼ同様の乗務を続けてきた。なお、訴外会社においては、毎週日曜日及び祝祭日を公休日とするほか、毎月二日間の指定休日、年間二〇日の有給休暇、年末・年始休暇、年間二日の夏期休暇があるところ、章次は、これらの休暇をほぼ全部使いきって休養をとっていたので、一般的にいって、訴外会社の業務による疲労が次の勤務日までに回復できないような過重なものではなく、右勤務が章次の健康に悪影響を及ぼす程のものでもなかった。

4  そして、章次は、その死亡する前々日の昭和五六年二月二八日も指定休日で勤務につかなかったので、結局、章次は、同月二七日午後一〇時から同年三月一日午後三時までの四一時間が非拘束時間であって、その間に充分休養をとる時間があり、訴外会社の業務のためには疲労した状態ではなく、現に、右三月一日午後二時五〇分ころ、勤務につくため自宅を出たときは、いつもと変らない健康状態であった。

以上のとおり認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

三  章次の死亡当日及び前日の勤務状況

〈証拠〉を総合すると、次のとおり認められる。

1  昭和五六年三月一日、章次は、自宅で仮眠をとった後、午後三時ころ、イーグルの乗務予定のもとに、一人でセミトレーラー車を運転して、和歌山市を出発し、午後七時ころから八時ころまでの間に、奈良県天理市檪本町の名阪国道入口にさしかかったが、折からの積雪のため右国道の路面が凍結し、国道入口が閉鎖されていて、多数の車両が渋滞し、そのような状況がいつ解消されるか、めどがたたなかったので、付近の「だるまや食堂」で夕食を済ませ、また、同日午後九時ころ、訴外会社の配車担当者に電話で状況を説明したうえ、名古屋の向島運送への連絡をも依頼し、その了解を得るなどして、自己のセミトレーラー車へ帰ってきたが、その間に渋滞した車両の数が増えていて身動きができない状態になっていたので、やむなく右セミトレーラーの運転席に入って午前四時ころまで待機していたことは、同じく車両の渋滞に巻き込まれた訴外会社の同僚運転手の西岡暉芳が章次と道路状況に関する情報を交換しに来て確認している。その際、章次は、(午後九時ころから翌朝午前三時四〇分ころまでの間)よく眠ったといい、別に体の不調を訴えていなかったし、同僚運転手も章次に体の不調があるとは思わず、平素と同様の健康状態であると感じていた。

2  その後、同日午前四時四五分ころ、章次は、自己の車両から約三〇メートル離れた前記「だるまや食堂」の裏の空地において既に死亡しているのを通行人により発見された。自車へ帰る同僚運転手と別れたのち死亡するまでの章次の死亡直前の行動を見た者はいない。

また、章次の死体発見時の服装は、ジャンパー、作業服上下、毛糸セーター、長袖シャツ、毛糸腹巻き、メリヤスパンツ、靴下、安全靴等を着用し(〈証拠〉参照)、打撲傷等の外傷はなく、渋滞車両の排気ガスを吸入したことによる一酸化炭素中毒の症状も認められなかった。

3  昭和五六年三月一日午後一時ころから、奈良県地方には積雪があり、奈良地方気象台の測定結果によると、翌二日午後九時における積雪量は一〇センチメートル、章次の死亡推定時刻である同日午前四時三〇分ころの外気温は、摂氏マイナス二度位であると推認される。

なお、章次が死亡した当時、付近には渋滞に巻き込まれた車両が一〇〇台以上あって、そのほとんどが車内暖房のためエンジンをふかしていたので、相当程度の排気ガスが排出されていたと推認される。

以上のとおり認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

四  章次の病歴及び健康状態

〈証拠〉を総合すると、次のとおり認められる。

1  章次(昭和七年一二月一五日生)には、幼少のころから気管支喘息の持病があり、被控訴人と結婚した昭和三七年以降も、季節の変わり目あるいは風邪をひいたときなどは、喉のぜいめい音が治まらなかったが、昭和五〇年一一月六日、チアノーゼを起こすほどの気管支喘息の激しい発作に見舞われ、前坊医師の往診を求めたことがあるほかは、医師の往診を求めなければならないような激しい発作を起こしたことはなく、翌五一年三月に気管支喘息で同医師の治療を受けた以後は、もっぱら漢方薬を服用し、同医師から格別の治療を受けたことはなかった。ただ、喘息に特有のぜいめい音はなくならず、そのために、訴外会社によって毎年一、二回行われる定期健康診断においても、就業上の注意事項として喘息または気管支喘息の持病があることをひきつづき指摘されている。

2  章次の血圧については、昭和五一年三月一六日に前坊医院で測定した最高血圧値一四〇ミリメートル水銀圧、最低血圧値一〇四ミリメートル水銀圧、翌一七日に同医院で測定した最高血圧値一四〇ミリメートル水銀圧、最低血圧値一〇二ミリメートル水銀圧は(甲第六号証の八の三参照)、最低血圧値において高く、異常域にあるが、その後測定したところによれば、昭和五三年五月一五日の測定値が、最高血圧値一四〇ミリメートル水銀圧、最低血圧値八〇ミリメートル水銀圧(甲第六号の八の一一参照)、昭和五五年八月一日の測定値が、最高血圧値一三一ミリメートル水銀圧、最低血圧値七九ミリメートル水銀圧(甲第五号証の六の六参照)、本件事故直前の昭和五六年一月二三日における測定値が、最高血圧値一二五ミリメートル水銀圧、最低血圧値八八ミリメートル水銀圧であり(甲第五号証の六の六参照)、いずれも正常域の範囲内に回復し、したがって、右異常域の測定値は、なんらかの理由に基づく一過性のものであり、章次が高血圧症に罹患していたとは認められない。

3  昭和五三年五月ころ、章次は、メニュエル氏病症候群を発症し、その治療を受けるため、前坊医院へ通院したが、検査の過程において、尿中に糖が出ていることが発見されたところから、血糖検査を行ったが、空腹時に採血したときの正常値の範囲内である一デシリットル中一一九ミリグラムであった。章次は、その後、糖尿病あるいはメニュエル氏病の治療をうけていない。

4  章次には、以上のほか、持病と目されるものがなく、時折、勤務を風邪で休むくらいのものであって、訴外会社の業務のため、その健康上問題となるようなところは認められず、昭和五五年八月及び同五六年一月に各実施された会社の定期健康診断でも、章次が不眠や疲労感を訴えることはあったが医学的に異常の所見はなかった。

以上のとおり認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

五  章次の死因に関する医師の診断及び意見の要領

〈証拠〉によれば、章次の死亡原因となった疾病等についての各医師の意見は、次のとおりであると認められる。

1  章次の検死医である天理市立病院院長苗加文男医師の意見

昭和五六年三月二日午前七時ころ、章次の死体を検案したが、死体には打撲等による外傷はなく、一酸化炭素中毒症状を示す痕跡はない。死体解剖をしていないが、急性心不全を否定できる要素は他に認められない。

ポックリ病は、就寝中や睡眠中に発症するものであり、章次のように、死亡の直前まで車中で同僚運転手と雑談し、その後、車外に出て死亡した者の死因としてはおよそ考えられない。

気管支喘息の発作による急性死の大部分は、窒息によるものとされ、章次は、死亡推定時刻の少し前まで同僚の運転手と雑談を交わしていたということから、気管支喘息の発作を起こしていた可能性は少なく、また、窒息死であれば、顔面や眼結膜のうっ血、溢血点の多発等の所見が認められるところ、章次の遺体に右所見はみられず、さらに、気管支喘息の発作後の急死例にみられる高度の肺気腫に基づく理学的所見も認められないことからすれば、気管支喘息の発作による急死であるとは認めがたい。

車両の排気ガスには、一酸化炭素、窒素酸化物等、多くの有毒ガスが含まれており、閉鎖あるいは密閉された場所またはトンネル内等では、これを吸入することによって急性中毒を引き起こす危険があり、心機能にも少なからず負担をかけることもありうるが、本件のように章次が車両の外にいた状況のもとにおいては、排気ガスの吸入により、これが直接作用して心不全に陥ったとは考えがたい。

結局、本件の章次のような中高年層の心臓性突然死の原因疾病としてその可能性が最も多いのは冠状動脈硬化症である。なお、章次の遺体の眼結膜は、左が淡赤色、右が瘡白で、瞳孔は左右不同で、その直径は左〇・三センチメートル、右〇・四センチメートルであった(〈証拠〉)。

2  北里大学教授奥平雅彦医師の意見

本件死体検案書(〈証拠〉)に記載されている「急性心不全」という死因は、内因性急死者の約五〇パーセントが心臓死であるという、わが国内外の集計結果を勘案すればその可能性を否定することができないが、章次の遺体の瞳孔の直径が左右不同(左〇・三センチメートル、右〇・四センチメートル)であるところからすれば、頭蓋内出血である可能性を否定することができない(〈証拠〉)。

3  国立循環器病センター専門外来部長下村克朗医師の意見

章次の「急性心不全」の原因疾病としては、冠動脈閉塞による急性心筋梗塞、解離性大動脈瘤、頭蓋内出血、肺動脈血栓塞栓症、不整脈等の可能性があるが、剖検所見がないので、それ以上の考察はできない。

本件のように、自動車の運転席で同僚の運転手と通常の会話を交わしていた一見して健康人と見える者が、暖房された車内から、急に摂氏〇度に近い外気にさらされて死亡した場合に、一つの可能性として考えられるのは、冠動脈閉塞による急性心筋梗塞である。これには、温度の急激な変化に伴う心臓の負荷増大、冠動脈けいれんなどが直接の誘因になるものと考えられているが、ひとたび心筋梗塞が発症すると、発症後の死亡の直接のひきがねとなるのは、合併症として生ずる心室細動(不整脈の一種、致死的)である。心筋梗塞発症から心室細動に至る時間はさまざまで、劇症例では極めて短時間であることも稀ではない。心筋梗塞が発症するためには、基礎心疾患として冠動脈の硬化症が存在する場合がほとんどで、狭心症を前駆症状として持つ人や、既往に心筋梗塞症を経験してる人も多いが、なんの前触れもなく、いきなり心筋梗塞が発症する場合もある。本件の場合、遺体が解剖されていないので、冠動脈の硬化も、心筋梗塞による心筋の変化も直接証明することができないが、このような客観的条件下で考えられる疾患としては可能性の高いものに属する。なお、一般に高血圧症や糖尿病は、冠動脈硬化発症の危険因子とされているが、章次の場合、この程度の軽度の高血圧症や糖尿病が、冠動脈硬化症にどの程度寄与しているかは全く不明である。

次に、平素健康な人が急死する場合の疾患として重要なものに大動脈の壁に突如として破綻の生じる解離性大動脈瘤がある。一般に、解離性大動脈瘤は、胸痛、肺痛、腹痛など、障害の部位に応じた激痛、悪心、嘔吐、冷汗、呼吸促迫などの症状を伴い、劇症ではそのまま血圧が低下してショック死する場合もある。概して、劇症型でも、死亡までに数時間以上を要するのが普通であるが、章次の場合、屋外の気温が摂氏〇度に近いという条件が加わるので、発症直後に介助者がいない場合には、一時間以内の死亡ということもありうると考えられる。

次に、原因疾病として可能性があるのは、頭蓋内出血である。頭蓋内出血は、その発症から死亡まで通常一〇時間以上を経過するのが普通であるが、劇症型のくも膜下出血、小脳出血、脳幹出血等では数分で死亡する例もある。いずれも、剖検によって明らかにすることができるものである。

肥大型心筋症も急死の原因疾病としてあげられるが、概して若年者に多くみられる。章次は、これまでに気管支喘息などで治療を受けていたから、もし右原因疾病に罹患していたら、この年齢までに何らかの自覚症状または他覚所見(例えば心雑音)が指摘されていたであろうと推認されるので、罹患の可能性は少ないと考えられる。

この他、急死の原因疾病としては、肺動脈血栓塞栓症があるが、一般に、この疾病は、平素から慢性、反復性の症状である体動時息切れをするのが普通で、全くなんの前触れもなく、初回の血栓塞栓症からいきなり突然死に至る例は比較的稀で、剖検によってのみ明らかにされる。

急死の原因疾病としては、いま一つ重要なものに、不整脈がある。不整脈が直接死亡につながるのは、急性心筋梗塞のほか、心筋症、心臓弁膜症、先天性心疾患などの器質的心疾患の末期に多いが、一見健康そうに見える人にも生命を脅かす不整脈が突発的に生じることが時にある。WPW症候群、QT延長症候群、特発性心室細動などであるが、これらの疾病は、過去に何らかの心電図異常または予告的な不整脈があって、その証拠を生前に把握している必要があり、急死時の診断はそれが唯一の根拠となる(〈証拠〉)。

4  労働基準局医員駒井則彦の意見

死因は、死亡前に心疾患の既往が認められないので、急性心不全による突然死と認めざるをえない(〈証拠〉)。

5  章次のホームドクターである前坊毅医師の意見

章次は、持病である気管支喘息の激しい発作を起こし、吸気性呼吸困難のため血中酸素が不足して心臓に過剰な負担を生じ、心不全に陥り死亡したものと思われる。

以上の認定を左右するに足りる証拠はない。

六  死亡労働者の遺族が、労災保険法に基づき、遺族補償(同法一六条)及び葬祭料(同法一七条)の給付を受けるためには、右労働者の死亡が「業務上」の事由に基づくものであることを要するが(労災保険法一二条の八第二項、労基法七九条、八〇条)、右「業務上」の事由に基づく死亡とは、労働者が、労働契約に基づき事業主の支配管理下にあるときに死亡した場合であって(業務遂行性)、かつ、その死亡が、業務に起因して発生した負傷または疾病によるもの(業務起因性)と認められる場合、すなわち、業務と右死亡の原因となった負傷または疾病の発生との間に相当因果関係が存在すること、さらには業務が他の危険因子と共働原因になっているときには、業務が他の原因に比べて相対的に有力な原因であることが是認される場合であることを必要とし、かつ、それをもって足りると解するのが相当である。

なお、右業務と死亡の原因となった負傷または疾病の発生との間に存在すべき相当因果関係は、不法行為法における行為と損害との間に存在することを求められる相当因果関係、または債権法においてその存在が要求される債務不履行と損害との間の因果関係とは、その内容を同じくするものであるとはいえず、従属的労働関係において、当該業務に当該傷病を発生させる具体的危険性があり、それが現実化して労働者に損失を生ぜしめた場合に、これを補填することを目的とする現行労災補償制度のもとにおいては、経験則に照らし、当該業務には、当該傷病を発生させる危険性が存在すると認められるか否かを基準として、その相当因果関係の存否を決するのが相当である。

被控訴人主張の合理的関連性説は、その判断の基準とされる業務と傷病との間の「合理的関連性」の意味が恣意的となるおそれがあるのみならず、「業務上」の範囲を広く解することになる結果、当該傷病が、単に、使用者の支配下にあったことを機会として発生した場合をも含むこととなり、労災保険法においては、保険給付の原資のほとんどが使用者の負担する労災保険料によって賄われている現行法制度のもとにおいては、使用者に過大な負担を強いることにもなり、失当のそしりを免れることができず、直ちには採用することができない。

七  本件において、章次の遺体の検死医である苗加文男が章次の死因とした「急性心不全」は、前記のとおり、心臓が全身に必要なだけの血液を送り出すことができなくなった状態をいい、終局的に心臓が停止した結果を意味する医学的概念に過ぎないことは当事者間に争いがなく、労災保険法一二条の援用する労基法七九条、八〇条所定の「労働者が業務上死亡した場合」にあたるか否かは、これを疾病による場合についていえば、労働者が業務に基づく疾病に起因して死亡した場合をいい、右疾病と業務との間に前記現行労災補償制度のもとにおいて要求される相当因果関係が認められ、その疾病が原因となって死亡事故が発生した場合をいうものであると解するのが相当である。

本件において、章次の死亡事故の原因となった疾病を特定することは、章次が、その生前、精密な健康診断を受けておらず、その遺体の解剖が行われなかったため、今となっては不可能であるといわなければならないところ、このような場合には、被災者の既往の疾病、健康状態、従事した業務の性質、業務が被災者の心身に及ぼす影響の程度及び事故発生前後の被災者の勤務状況の経過などを総合して、被災者の死亡の原因とするのに矛盾のない疾病を措定し、右疾病と業務との因果関係の存否について判断するほかはない。

八  そこで、前記二ないし四で認定した本件における事実関係に基づき、前記五で認定した五人の医師の所見及び意見をも斟酌して章次の死亡の原因となった原因疾病及びその業務起因性の有無について判断する。

1  被控訴人は、章次の「急性心不全」の原因疾病は、同人の持病である気管支喘息であり、事故当日、トレーラー車内外の温度差、渋滞する自動車の排気ガスの吸引等が原因となって、同人は、激しい気管支喘息の発作を起こし、前記認定にかかる章次の死因についての前坊医師の所見のように、吸気性呼吸困難のため血中酸素が不足して、心臓に過剰な負担が生じ、その結果、「急性心不全」に陥ったものであると主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、章次には、幼少のころから気管支喘息の持病があり、昭和三七年の被控訴人との婚姻後も、季節の変わり目などには、喉にぜいめい音が生じるなど、気管支喘息の症状が残っていたが、昭和五〇年一一月六日には、自宅において呼吸困難に陥るほどの激しい発作を起こして前坊医師の往診を受け、翌年三月にも、同医師による気管支喘息の治療を受け(通院二日)ているほか、その後も、発作までには至らなかったが、軽度の喘息の症状がみられたところから、訴外会社によって毎年一、二回実施される定期健康診断において、健康診断個人票の就業上の注意事項欄等に、喘息、または、気管支喘息と記載されることが多く、前掲甲第五号証の六の五、六によれば、昭和五五年八月、及び同五六年一月に実施された健康診断の結果にもその旨の記載があることが認められる。

そして、章次は、昭和五〇年一一月六日に、前坊医師の往診を必要とする程の激しい喘息の発作を起こし、翌五一年三月にも同医師による気管支喘息の治療(通院二日)を受けたことがあることは、前記認定のとおりであるが、その後の章次の喘息の症状は、軽度のものであって、昭和五〇年一一月に起きたような激しい発作を起こしたことはなく、また、前坊医師から喘息の治療を受けたこともなかったことが認められること、また、前掲甲第四号証の九によれば、章次の死亡直後の状態及びそれから三時間余り後に行われた検死の結果からも、同人がその死亡直前に呼吸困難に陥るほどの激しい喘息の発作を起こしたことを窺わせるような身体的症状を見出すことはできなかったこと、章次の検死をした苗加医師は、死亡推定時刻の少し前まで章次が同僚の運転手と雑談を交わしていたこと、また、窒息死の場合は、顔面や眼結膜のうっ血点、溢血点が多発するはずであるが、その所見が診られないこと、さらには、気管支喘息後の急死例でみられる高度の肺気腫に基づく理学的所見が認められないことからして、気管支喘息の発作によるものとは認められないとの所見を明らかにしている。以上の認定事実に照らすと、章次の「急性心不全」の原因疾病は気管支喘息であり、その発作によって呼吸困難となり、その結果、血中酸素の量が不足し、「急性心不全」を惹起して死亡したとの被控訴人主張事実は、これを認めるに足りる証拠がなく(〈証拠判断略〉)、採用することができない。

2  被控訴人は、本件事故当時、章次には、気管支喘息のほか、高血圧症及び糖尿病の持病があり、これらの疾患は、個々にあるいは他の要因とあいまって章次の「急性心不全」の原因疾病となりうるものであると主張する。

高血圧症は、脳血管疾患及び虚血性心疾患の最大の危険因子であり、高血圧の状態が長期間続くと、動脈壁が傷ついてアテローム性硬化と線維化等が促進され、また、糖尿病は、動脈硬化性病変の促進因子であることが知られているが、章次の高血圧症あるいは糖尿病の病態は、前記四の2、3において認定したとおりであって、高血圧症については、昭和五一年三月一六、一七日の二回にわたり、最低血圧値が一〇四ミリメートル水銀圧、一〇二ミリメートル水銀圧(最高血圧値は、いずれも一四〇ミリメートル水銀圧)を示したことがあったが、高血圧症の治療を受けることもないまま、まもなく正常値の範囲内に回復しており、糖尿病については、昭和五三年五月ころ、尿検査において尿糖の排出が認められたが、血液検査の結果、血糖値は正常値の範囲内にあることが認められたというのであって、これら事実関係のもとにおいては、そのいずれもが直接あるいは間接に、他の共働原因があるときは、相対的に有力な原因として、章次の「急性心不全」を惹起するに足りるものとは到底認められず、この点についての被控訴人の主張は失当であり、採用することができない。

3  被控訴人は、章次がその生前従事していた業務は、セミトレーラーによる貨物運送の乗務で、その内容は、肉体的及び精神的に大きな負担のかかる激務であり、被災当時、一二年間にわたる運転業務に従事してきた章次には心身ともに相当な疲労が蓄積されていたこと、章次には、気管支喘息、糖尿病、高血圧症の基礎疾患があり、これら各基礎疾患と被災当時の慢性的過労状態とがあいまって、章次の心臓には相当程度の負荷がかかっていたこと、このような状況の下に、本件事故当日、積雪のため長時間にわたる交通渋滞が発生し、肉体的疲労に、過度の苛立ちや業務予定の遅滞による焦燥感などの精神的緊張が加わって、章次の心臓機能に対する負荷が増大したことにより、同人は、「急性心不全」に陥り、死亡するに至ったものであると主張する。

しかしながら、章次の死因である「急性心不全」の原因疾病の特定は暫くおき、章次の従事してきた業務の内容及び死亡の直前における勤務状況についての認定は、前記二、三のとおりであり、章次の運送業務における目的地は、比較的遠方の場合でも名古屋までであり、八尾市南部、奈良等の近距離運送がその大半を占めていること、章次は、日曜、祝祭日には確実に休んでおり、年休等の休暇もほとんど消化して疲労の回復に努めていること、章次が死亡した日の前々日は、指定休日で全日、翌三月一日は、午後三時に出勤しているから、合計約四〇時間に及ぶ休養をとることができたはずであること、名阪国道の閉鎖によって車両の渋滞に巻き込まれてからも、訴外会社の配車担当者に電話をして、状況を説明し、了解を得たのち車内で仮眠をとり、死亡推定時刻の少し前まで同僚の運転手と話を交わしているが、右同僚の目からも、章次が乗務の予定より大幅に遅れることにつき、格別の焦燥感を抱いていたとは見えなかったことを併せ考えると、章次の従事していた日常の業務は、これを客観的にみて、休日に休養をとることによっても疲労を回復することのできないような内容のものではなく、さらに、本件事故当時の業務が平素の業務と比較して、特に過重な内容のものではなかったと認めるのが相当である。

被控訴人のこの点に関する主張は失当であり、採用することができない。

4  つぎに、〈証拠〉によれば、一般に、人の思いがけない急死(突然死)の原因としては、医学上、心臓の冠状動脈硬化症ないし冠動脈閉塞による急性心筋梗塞、頭蓋内出血、解離性大動脈瘤、不整脈等があり、かつ、右疾病は、平素、右疾病に至る病的症状が全くなく、一見健康な人でも、突然、発症して死亡する場合もあることが認められる。

一方、(1)訴外会社における章次の平素の勤務の内容は、その従事する業務による疲労が次の勤務までに回復できないような過重なものではなかったこと、(2)章次が、その死亡する前々日の昭和五六年三月一日午後三時に訴外会社の勤務に就くまでには、充分な休養をとる非拘束時間があり、その後、勤務に就いて、和歌山を出発し、奈良県天理市に至り、同所において、名阪国道の閉鎖による車両の渋滞に巻き込まれたけれども、その折には、速やかに訴外会社の配車担当者に電話をして、右の状況を説明し、名古屋の荷物の運搬先にも、その旨の連絡方を依頼して、その了解を得ていること、(3)そしてその後、章次は、急死する直前までの間に、数時間仮眠をして休養をとり、当時、特に疲れたような状況にもなかったこと、以上の事実は、前記に認定したとおりであるところ、右事実関係からすれば、章次が急死する直前の当時には、訴外会社の業務のために、章次に、心不全によって死亡する疾病発症の原因となるような右業務による強度の精神的、肉体的負担が生じていたとは、認め難いというべきである。

そして、以上認定の諸事実からすれば、章次の心不全による急死は、訴外会社の業務とは無関係に生じたとみる可能性も充分にあるのであって、訴外会社の業務に起因し、又は、右業務が章次の有していた危険因子と共働原因となったことに起因して生じたものとはたやすく認め難いというべきである。

九  そうすると、原因疾病を含む章次の死亡とその従事していた業務との間には相当因果関係がなく、右原因疾病は、労基法施行規則三五条別表第一の二第九号の「その他業務に起因することが明らかな疾病」にも該当しないので、本件処分は適法であり、被控訴人の本訴請求は理由がなく棄却を免れない。

よって、被控訴人の請求を認容した原判決は正当でなく、本件控訴は理由があるので、原判決を取り消し、被控訴人の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき、行訴法七条、民訴法九六条、八九条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 後藤 勇 裁判官 東條 敬 裁判官 横山秀憲は、転補につき署名、押印できない。裁判長裁判官 後藤 勇)

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